Friday, March 11, 2011

3月12日

気になる気持ちを引きずったまま、仕事探しにいってきました、
帰ると夕方。


テレビでは、NHK World が一日中でしょう、地震のニュースを伝えています。


見ているだけで、神戸で震災にあった日の事を思います。
95年の1月17日、あの朝も寒い朝でした。 


ここで、テレビの画面を見ながら、
震災にあったみなさん、そして家族を失ったみなさんたちがこれから
直面してゆく、先の見えない生活。 生き残ったことへの罪悪感、
生き残るだけのその意味、そんなことを考えてしまいます。


私は、あの時生き残りました。 同じ家にいた母は、下の階で命を失いました。
どうしていいか、わからなかった。
当時、22歳だった私。 一夜にして、母と帰る家を失い、。 


1月15日に、母と一緒に自宅のしめ縄を一緒に燃やして、厄よけに、
と、その夜、家の周りにおいたばかりなのに。 
一生分の厄が、私と母に降り掛かりました。


”私がおらんかったら、あんたは生きていかれへんな。”
冗談のように、誇らしく、母がいっていた言葉。
あの当時、母は、それが口癖でした。 




震災の当日の夜、一つの考えだけが頭にありました。
母の遺骸がある、倒壊した家で眠れば、自分の部屋でいつものように、
母のいるあの家で眠れば、そうすれば、朝目覚めたら、
全てがいつも通りに戻っている。
自分の部屋で眠ったら 。


きっと、これは、夢なんよ。






震災1週間後、ようやく母の亡がらを荼毘にふし、まだ熱さののこる、
あの部屋で、白い、小さな母の破片をひろい集めながら、
2度と、母はもどってこない、あの、幸せだった、母に愛され、守られ
くらした日々はもどってこないと、確信しました。


息を思いっきりすいました。 空気のなかにただよう、母ののこりを
自分の肺にすいこむつもりで、深い呼吸を続けました。
そのときの空気の味を、温度を、今でも覚えています。




荼毘にふすことで、残された者の、なくした者への執着心をも切っている
のだ、とあの時感じました。




高知の祖母の家に母のお骨とともにかえり、お葬式をおこないました。
母から相続した遺産のことで身内から、母の葬式の席で訴えるといわれ、
祖母の家からでていけ、と、母の妹にいわれました。
母の兄、二人はそれをとめるでもなく。 祖母さえもなにも言えず。


母は、私の実の母ではなく、私の実の母の姉。
おばにあたる人でした。 養母でした。 それゆえに、こういうことが
、平然と、葬式の後起こりえたのです。


実の母は、私が19歳の時に、ガンのため他界。
実の母が生きていれば、色々なことが全くちがっていたでしょう。




街頭のない、田舎の夜道をひとり泣きながら、川向いに住む父の兄の家に
むかって歩いてゆきました。
誰か、助けて。誰か、助けて。泣きながら、歩きながらそればかり
考えていました。  
そこさえも、行きたい場所ではなかったけれど、どこにも行く場所がなかった。


 生きていても、幸せになる権利もない人間だと思っていました。
よくないことばかりを引きつけていました。
友達に助けてともいえず。
当時、まだ、若すぎて、どうしていいか分からなかった。
いきなり、大人のどろの世界にけり落とされた気分でした。


普通の生活をしている友達に、この泥沼からたすけて、と言えるわけもなく。
それでも、友達は、あの時もてる力の全てで私を支えてくれました。


被災後、京都で知り合った知人になきつかれて、母から相続した土地を
担保にある会社の保証人になりました。 もちろん、全て失いました。






もう、疲れた。、ある夜、そう思って京都の団地のベランダから
ベランダの下を覗きました。 手すりのむこうの世界。
もう、なにも考えなくてもいい世界。 悲しみも、寂しさも、
罪悪感も、敗北感もないむこう。


静かな夜でした。 本当に妙に静かで。 
私は一人、団地のベランダでしばらくたっていました。。
母のお仏壇が部屋の中にありました。


すいよせられるように、じーっと、3階から下の地面をみていると、
”これは、ぜったい痛い。 本当に痛い。”


そんな、あたりまえのことが頭にうかびました。
その後、当時、まだ距離のあった姉に電話して、全てを打ち明けました。


あの日、私はやっと、救われました。




震災がおわって何年かたって、自分の魂がもどってきました。
幸せになりたい。
私の夢をかなえたい。。
その時、私は29歳になる直前。


それから、私はご縁あって、京都ですばらしい方々に出会いました。


全て失った当時、所持金10万円だった私ですが、
お昼仕事を続けながら、京都の素敵なお店でバイトとして使っていただき、
その2年後、学費と生活費を手にロスに夢をかなえにやってきました。


それが、もう10−11年前の話です。






震災当時、すでに22歳だった私でさえ、それなのですから。
未だに、神戸の冬がつらくて、寒い冬の神戸を一人で歩いていると、
涙がどんどん湧いてくるのですから。




この地震で、家族をなくされた方々の、これから始まる苦痛を思うと、たまりません。
物資の援助、それと同じように精神的な援助が必要なのです。


物資の不足は半年もたてば、だいたいおさまります。
魂の不足は、何年も、人によっては、一生、続きます。 
そこまで行政機関は手が届かない。 
これだけ犠牲者が多いと、のこされた家族も多くて、そこまでの心の
サポートはまず、不可能でしょう。


自然は時に無慈悲です。


それでも、人は、ただ、毎日を営む。
いつか、また、新しい毎日を築くまで、何度でも、何度でも
毎日を続ける。






生きるものの本能が、最後には魂を救うのでしょうか。

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